経済学批判と物象化論

「生産が消費のために必要な限度を越えることによってはじめて、使用価値は使用価値であることをやめて、交換手段、すなわち商品となる。他方、使用価値は、たとえ両極〔相対する交換者〕に配分されているとしても、直接的な使用価値の限界内においてのみ商品そのものとなるのであり、したがって商品所有者たちによって交換される諸商品は、交換者双方にとって使用価値でなければならず、しかも各商品は、その非所有者にとっての使用価値でなければならない」――カール・マルクス『経済学批判』

「事実、諸商品の交換過程は、もともと自然発生的な共同体の胎内にあらわれるものではなく、この共同体のつきるところで、その境界で、それが他の諸共同体と接触する少数の地点にあらわれる。ここで物々交換が始まり、そしてそこから共同体の内部へと浸透してゆき、共同体に解体させる作用をおよぼすのである」――カール・マルクス『経済学批判』

商品が社会的存在全体の普遍的カテゴリーである場合にのみ、商品はその偽りのない本質的なあり方において把握されることができる。このような連関のなかではじめて、商品関係によって生じてくる物象化は、社会の客観的発展に対しても、この発展に対する人間の態度に対しても、決定的な意味をもつようになる。すなわちこの物象化は、物象化がそこに表現されている諸形態に人間の意識が従属させられるということに対しても、またこの物象化の過程を把握したり、物象化の人聞を破滅させる作用に反抗したり、その作用のために生じた「第二の自然」のもとに隷属している状態からみずからを解放しようとしたりする人間の試みに対しても、決定的な意味をもつようになるのである。ルカーチ「物象化」166ページ

「ここで人間にとって諸物の関係という幻影的な形態をとるものは、ただ人間自身の特定の社会的関係でしかないのである。」――マルクス資本論エンゲルス版第一巻三八-三九ページ

この物象化の基本的事実によって、人間独自の活動、人間独自の労働が、なにか客体的なもの、人間から独立しているもの、人聞には疎遠な固有の法則性によって人間を支配するもの、として人間に対立させられる、ということである。(物象化166-167)