近代医療とシャーマニズムの関係の整理

ニューヨーク・シーン
近代医療とシャーマニズムの関係の整理
・メスメリズムの18世紀における席巻は、アンチ科学ではなく、科学流行を背景に発達した。精神医学は、催眠療法などその「合理的部分」を吸い上げ、また精霊的な現象の心理面(=機能面)を徐々に飼いならしてきたのではないでしょうか。
・しかしフロイトにせよ、その理論的部分は、現在では[実質的に破門的された弟子のユング的転回のように]オカルト化されるか、ベイトソンなどのシステム論的なアプローチで命脈を保っているにすぎない。要するに、近代医療は徹頭徹尾、シャーマニズムのオカルト的側面を飼いならそうとしてきたことは、きちんと指摘する必要はある(貴兄にそれへの異論はないと思います)。
・最近の近代医療のシャーマニズムへの飼いならしは次の局面に登場します。シャーマニズム実践は少数民族の専売特許であって、それが現在の環境保護や人倫の基本(手本)を示すことから、近代社会の問題(資源・エネルギー・道徳など愁眉の諸問題)を考える時に、彼らの実践に高い価値を位置づける一群の人たちがいることです。WHOの健康の定義における「スピリチュアルに健康」の一文を付け加える議論はもう10年ちかくなるのに決まらないのは、まあその後に、テロや新興感染症対策が登場してきたからですが、今後とも続くと思います。
・もしそうだとしたら、近代医療とシャーマニズムというのは、長年のライバルであるという見方がまず標準にあるということを押さえた上で、スピリチュアルな問題が今再び浮上しているというという(歴史主義的)主張のほうが、長持ちするのでは。というのは、社会状況が変われば(科学戦争のように)シャーマニズム弾圧の機運が高まるかもしれません。シャーマニズム擁護の立場からすると、科学はいつも都合のよいようにシャーマニズムの要素をつまみ食いしてきた。他方で、シャーマニズムの弾圧の時も、シャーマニズムの部分的論難をしてきたので、近代医療のシャーマニズム批判はいつまでたっても「部分的な非=真理」(partial truthのギャグですよ)しか突いてこない、と言い返しましょう。
・要するにシャーマニズムは、人間認識の極めて先鋭化した技法であって、そのような能力は人間がもつ特異的能力――非合理なことを信じれる能力――のひとつだということを全面的に押し出す必要があります。そして、そのような人間の能力について、きちんと評価し、それが考えるに価するものだとして、ずっとつきあってきたのは、医師でも宗教学者でもなく、他ならぬ人類学者であったとということですね。だから、人類学のシャーマニズム理解は、類型論、機能論、システム論、さらには政治経済的アプローチへの変化してきたということですね。人類学がもっているシャーマニズムに関する知識は膨大で、多様な解釈があり、それらの遺産の上に立って人類学者は理解している。
・他方で、人類学そのものにも問題がある、なぜならそれらの理論的展開を単純にシャーマニズムを理解するための「道具」としてしか考えてこなかったから。そうではなく、それぞれの理論は、シャーマニズムのそれぞれの側面にほかならないということだろうと思います。
・最終的な落としどころは、シャーマニズムはオトロシイが、極めて面白い。オトロシイというのは、その世界に填ってしまうと楽しいが、シャマニズムを十分な観想の対象にすることができない。面白いというのは、その解釈をおこなういろいろな理論を動員しても、次々と矛盾する現象に出会う。シャーマニズムとは多様性があり、また、それぞれのシャーマンには強烈な個性がある。多様性の細部か個性に入ってゆくことはシャーマニズムという普遍的カテゴリーの存在を否定する(あるいは重要視する必要がない)状況を生起してしまう。あるシャーマンを評価することは、別のシャーマンを価値下落させることにつながる。つまり価値論的な意味でのケサリードのパラドクスを引き起こしてしまうことです。
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◎幻想を正しく理解すること(シャーマニズム論)
http://cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/0800617med.html