迷信と科学技術(迷信と科学のパロディだよ)

昭和の三大馬鹿査定(1987年12月23日に当時の大蔵省の田谷広明主計官が命名!)は、戦艦大和武蔵・伊勢湾干拓青函トンネルだが、今日では新幹線のさらなる延伸、明石大橋などもリストに加えてもよいだろう。
しかし、その三馬鹿の1つに数えられた、その伊勢湾干拓とはどういうものか全貌――特に無駄にかかわる予算のゆくえや政策決定過程――がわからない。次のようなものがある。「戦後,食糧増産を目的として,再び鍋田の干拓化に目がつけられ,1946年(昭和21)に着工,1957年(昭和32)には第一次入植が行われた。/1959年(昭和34年)に伊勢湾台風の直撃を受け,土地が流され,入植者318人のうち133人が死亡してしまった。海岸堤防の95%が決壊した干拓地の復興は,被災後直ちに取りかかられ,1960年(昭和35)に堤防が改良復旧された。復旧後の堤防の高さは海岸堤が6.3mとなり,また,形もオランダ式となり大きく改良された。甚目寺町に集団避難していた入植者も現地にもどり12.2haの土地に作付けしたが,塩害がひどく収穫は4haに限られた。翌年には75haの土地に作付けが実現し,10aあたり4〜5俵の収穫があった。/伊勢湾台風の教訓から住居も鉄筋3階建ての耐災住居が1962年(昭和37)に完成した。伊勢湾台風から,40年ほどたってこの地区の住居も様変わりし,現在では,数戸しか残っていない。/また,この地区では,伊勢湾台風以降早場米を導入し,台風シーズンの前に米を収穫している」[「鍋田干拓出典]。
伊勢湾台風だが、リゾート列島開発の大勲位の存在について初めて知る。災害対策基本法のルーツだ。
まずはウィキから伊勢湾台風伊勢湾台風の大被害により、日本の防災対策は根本からの変更を迫られた。被災から2週間後の1959年10月9日には、当時の科学技術庁長官中曽根康弘を委員長とする臨時台風科学対策委員会が設けられ、現地を視察した中曽根委員長は防災のための立法措置を示唆している。そして1961年1月に「災害対策基本法」が公布された。防災対策を総合的かつ計画的に進めることとし、防災計画の作成、市外予防、災害発生時の対策や救援、復旧等の基本がまとめられたものである。/また東京をはじめとする全国各地の防潮堤・堤防の建設や改修も伊勢湾台風を基準とし、伊勢湾沿岸では特に国や県が協力して防潮堤を完成させた。高潮の被害にあった愛知県弥富市の鍋田干拓地の堤防は、伊勢湾台風級の高潮が来ても決壊しないように高く頑丈に造られた。/これに加え治水対策が強化された。従来進められていた治水計画を大幅に上回る洪水を記録した河川が多く、建設省や各地方自治体は河川改修を根本的に見直さざるを得なかった。この為揖斐川紀の川櫛田川、淀川などの水系で治水計画が改められ伊勢湾台風時の洪水に耐えうる治水計画・河川総合開発事業が計画された。これは宮川流域だけが宮川ダムの洪水調節によって浸水被害を最小限に食い止めたことなども影響している。伊勢湾台風を機に計画・建設されたダムとして徳山ダム・横山ダム(揖斐川)、大滝ダム(紀の川)などがある」とここまで読むと、ふむふむという感じだが5000名以上の死者を出した大災害には、次のような風評のオマケがつく。
名古屋市では、第二次世界大戦で焼失した名古屋城と金の鯱(しゃちほこ、金鯱)が伊勢湾台風襲来直前に再建されたが、名古屋の高潮災害は金の鯱のせいではないかと言う話が台風後に市民の間でささやかれた。もともと鯱(しゃち)は水を呼ぶ力があるとされ、それ故火除けのために城の屋根に付けられるようになったのであるが、伊勢湾台風の水害も金の鯱が呼んだのだ、と言うわけである。」(後者はともにウィキである)