embryo[logy]は死んだのか?

関心のある皆様へ
垂水源之介(医療人類学)です。
昨夜、某研究会の席上で現代生物学・現代医学における発生学(Embryology)という学問パラダイムの衰退について私が指摘したところ、そのような傾向(つまり発生学)の衰退のようなものは、みられないとの訂正意見を某医学部の教授よりいただきました。私は、その修正にはまだ首肯していないのですが、どうしてそのような誤解が生じたのかについて考えたところ、これは「発生」の日本語への翻訳に関わる問題ではないのかという気がしましたので、愚見を披瀝し、この分野に明るい方のコメントをお聞きしたいと思います。(関心のない人は、以下は放念下さい)

*

そこで確認なのですが、私のいう衰退した発生学とはembryologyつまり、あのなつかしいシュペーマンのオーガナイザーの発生学です。この時代遅れの学問は、よく考えれば胚生学あるいは胎生学ということで、まず発生現象の形態学的観察があり、その後の実験的な操作方法の確立により実験発生学になります。したがって基礎では解剖学、臨床では畸形学・奇形学(teratology)というジャンルの中で取り扱われるテーマでした。
ところが、どうも最近の進化発生学の発生とはdevelopmentのほうで、これに生物進化学[=現代生物学の王道]的正当化がされて、今日の大学では教授されるようになったのではないでしょうか。例えば発生学でグーグルで引いて見ると、上位のほうに神戸大のかつての解剖学第1教室でしょうか「脳科学講座神経発生学分野」というものが引っかかり、その神経発生学に対応する部分は、Anatomy and Neurobiology となっています。
development, developmental には、発生・発達の意味があるので、結局のところ、この混乱の原因はembryologyを発生学と翻訳したところから来ている(時代的・パラダイム的制約があるので、このような経緯そのものを非難することには全く意義がない)のではないかと思った次第。
上のことは、まったくのオタッキーな議論だが「科学文化の翻訳」という観点からみると重要なことで、最近の科学の読み物を読んでいると、科学理論とそれが生まれた当時の社会の価値観を極端に直結するようなホット=イディオットな議論が多く、認識論的な相対化(クールダウン)も時に必要ではないかと、余計なことも思った次第――ホット派が科学戦争の敗残者になるのもゆえしなしかと。
てなことを考えて、ここで岩波の生物学辞典第4版「発生生物学」を引いてみたら、「1950年代に入って強く認識され,実験的に発生を研究することはもはや常識化されて,わざわざこれを実験発生学とよんで発生学(embryologyのこと――引用者)と区分するのは不自然となった.一方,生化学的手法の発生研究への導入も普遍的なものとなったので,特にそのことを化学的発生学という名称で強調することも無意味となった.加えて,発生の現象は単に胚の発生だけではなく,再生,細胞の病理的変化なども含めて,生体内で起こる細胞の増殖・分化・形態形成も包含しており,このような見地からすれば,embryology(日本語訳は発生学)という呼称は十分に学問内容を表現していないことにもなる.以上のような諸見地から,1950年代の初めにアメリカの研究者たちによって発生を研究する分野を発生生物学という呼称で代表させることが提唱され,定着するようになった」とありました。いやはや私の頭の中では、死んでしまっているミイラと同居していたようで、どうも申し訳ございません。こんな誤解をしていたのには、私の学業経験という個人的な事情もあるのだが、それは今回の議論とはずれてしまうのでここではやりません。