ある時はネグレクト、ある時は神聖視される、それが児童というもの

スミスヴィル「米国の歌手マドンナさんがアフリカ・マラウイの1歳男児と養子縁組したことについて、子供の権利擁護に携わるマラウイの市民団体が14日、裁判所に縁組の差し止めを求める訴えを起こすことを明らかにした。「貧しいアフリカを救う」という大義名分の下で先進国の著名人が我が物顔で振る舞うことへの反発が背景にあり、人気歌手の養子縁組は思わぬ波紋を広げている。……同国(マラウイ――引用者)では外国人が養子縁組する際、国内で一定期間、子供と暮らすよう義務付けており、裁判所の決定は異例の早さ。また、デイビッドちゃんは母親を亡くしたが、父親は健在だ。このため今回の縁組に対し、著名人を特別扱いして子供の人権を無視しているとの反発が広がった。/訴えを起こす市民団体「子供の目」のマデウェレ代表は14日、ロイター通信に「養子縁組は不動産売買ではない。マラウイでは国際養子縁組する子供の権利に関する法律が未整備で、決定は拙速過ぎる」と述べた。同代表によると、60近い団体が差し止めの訴えに賛同しているという。/マドンナさんは貧しいアフリカの子供に300万ドル(約3億6000万円)の寄付を表明。今回の縁組も「アフリカ支援」の一環とみられるが、国際養子縁組では先進国へ移住した子供が差別や文化の違いに苦しむこともあり、「善意が生む悲劇」を指摘する声もある」(headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061016-00000016-mai-int)。
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はてさてカメン『寛容思想の系譜』でグーグル検索かけると、宗教哲学者の間瀬啓允さんの次の言葉があった。
「現代イギリスの歴史家ヘンリー・カメンは「寛容とは、最も広い意味では、宗教において見解を異にする人々にたいし自由を与えることを意味する」と明言している。(『寛容思想の系譜』成瀬治訳、平凡社)。それは人間的自由の原理の発展をもたらす歴史過程の一部であるが、その発展はかならずしも直線的、前進的なものではなく、しばしば周期的に長いあいだの逆転をこうむっての、循環的な発展であった。というのも、人間の態度は社会的、政治的情勢によって制約され、周囲の事情にしたがってあちらこちらと漂いながら進んでいくものだからである。/この意味での寛容の要求は常にあったし、また今もある。「人間の法によっても自然の法によっても、各人は自由にその欲するものを崇めてよい。一個人の宗教は、他人にとって害にも益にもならない。宗教を強いることは宗教の本性に反する」(テルトゥリアヌス)。この古い命題は、現代の新しい問題状況のなかで、今ふたたび真摯に問い直されなくてはならないであろう」(rc.moralogy.jp/event/icms/abstract/ab_J_Mase.htm)。
うへ〜っ。こういうふうな権威の引き方もあったのか?! もし(へっぽこ文化人類学者の)私だったら、こういうだろう。「ヨーロッパの歴史のなかで、同じ社会における寛容の問題における重要な他者とは、他ならぬ異教徒(ユダヤ教徒ムスリムだろう)だった。あるいは、(21世紀のどこかの國のように)異教徒が人間じゃねぇという強引な切り離しをやっている場合は、キリスト教における他宗派の隣人の主張や生活態度にどれだけ辛抱できるかという問題系からはじまった」という風にね。しかし、(間?さんのような宗教哲学オンリー主義者ではないわちきは)次のような言及も忘れないぞょ。「だけど、この問題は宗教が世俗化する近代合理主義の社会では、ユダヤ人虐殺やアルメニア人虐殺(http://blog.livedoor.jp/tiocaima7n/archives/51131939.html)のような例外[?ーーこれで切れちゃう=怒るユダヤ人やアルメニア人もおられるだろうが]を除いて、寛容の問題は徐々に異なるイデオロギーを共有する党派(宗派から党派へ)間の受容の問題へとシフトしてゆくのではないか。それが宗派の差異の寛容へと再度宗教が問題になるのは、ヨーロッパにおける移民社会の成立以降のことである」とね。
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いやはや、こういうサイトもあったのだ。
寛容問題の百科事典のようだが、焦点化となると、こりゃもう滅茶苦茶、カーニバル的諸研究と申せばよいのか?
◎多元的世界における寛容性についての研究(京大COEプログラム)
http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/tolerance/tolerance_purpose.html