自由の管球王国

上杉佳郎設計・製作アンプ集―マイ・ハンディクラフトの集大成 (別冊ステレオサウンド)アーレント『人間の条件』からマルクスさんへ「・マルクスによれば、労働は「自然によって押しつけられた必要」である。革命は、人間を労働から解放する。それによって「自由の王国」が「必然の王国」に取って代わる。(160)/・マルクスは、社会化された人間は、労働から自由な時間を「ホビー」という私的で無世界的な活動力に費やすだろうと予見した。(176)」(www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Resume%20on%20Arendt%20Human%20Condition.htm)。ふうむ興味深い指摘である。しかし、すでに自然によって押しつけられた必要としての労働はもはや身の回りにはどこにもなく、革命は人間を労働から解放しなかった。自由な時間とホビーの時間は、むしろトレードオフの関係にあるのでは?
しかし、そういう点では荒岱介[あら・たいすけ、1945-]の次の指摘のほうがもっと読むに値する。必然の王国から自由の王国のテーマは『ゴータ綱領批判』とのこと「では自由とは何か。何をもって「自由」というのか。自由論の世界に入ります。自由とは何かというとき、アクティビストの中には「我々はfree fromではなくて、Libertyだ」などと主張する人もいます。しかしこれは全くのデタラメです。そうではない。自由論の肝になることは「free from」しかないのです。 バーリンの自由論やイギリス経験論のJ・S・ミルなどが言ってる「自由」とは、要するに「free from」なのです。「積極的自由」と「消極的自由」といった場合、「〜に向かっていく自由」などとはならないのです。基本的人権の一番大事な自由の問題になりますが、「拘束からの自由」とか「束縛からの自由」といった消極的なものをテーマとします。「行動の自由」は、「移動の自由」「行動や移動の制限に対する自由」を意味するわけです。だから「free from」が自由の定義で、好きなことを勝手にやるのが自由ではないのだということです。  つまりわれわれが「自由を求める」というとき、それは拘束から解放されることを内容とします。人間を拘束しているものには、国家や教会などいろいろあるけれど、その呪縛から解放されていく状態を自由と呼ぶわけです。/それで当然ながらマルクス主義のテーマも「自由」でした。マルクスは『ゴータ綱領批判』で、「必然の王国から自由の王国へ」などといって、来るべき自由な社会は共産主義社会であると定義しました。共産主義社会でこそ完全な自由=freedomが人間に保証されると。それに対し現在の社会は自由があまりにも多く束縛されている、だから革命をやる必要があるんだと論じたわけです」(http://www.bund.org/opinion/20050125-1.htm)。