オーディオ雑感

Gamelan Du Dieu Amour大権現さま
まず、レコードクリーニングのことですが・・・
 山口本のどこかに書いてありましたが、昔のスプレークリーニングの手入れが悪い中古レコードでは、スプレーに含まれていたゴミが粘着して独特のノイズがあり・・・てなふうな記述が1カ所だけあったような気がします(確かめてください)。だから、無水アルコールと高級パフによるクリーニングはレコードと針にとってはよいことで、悪いことはないのではないでしょうか。むしろ、レコードはどうせすり減っていきノイズが増えるだけなので(山口理論によると重針圧をかけても意外とタフだと言ってますね)一期一会でしっかり聴いてあげるというのが、レコードや演奏機械にとっても正しいつきあい方なのでは?
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 さて、いま私が凝っているのが、スピーカーセッティングのライン問題ですね。心理的なバイアスもあるので、軸をあわせたり、ネットを外したり(冷静に考えるとネットごときで高音のゲイン減衰などありえないのに、外すとよい音がする[ような気がする])いろいろやっています。スピーカー配置の軸の議論は、逸品館のホームページでもありましたが、コストがかからず、経験主義的に実験できるので、はまるとそれなりに楽しいですね。
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 生態視覚論のJ・ギブソンの奥さんが書いた伝記だったか、それ以外の認知系の論文だったかの記憶によると、ワインのテイスティングは、マスクテストやった後に正答を教えようが、教えまいが、訓練すれば、すなわち場数を踏めば、利き(聴き?)味はできるようになるとのこと。もし舌の感覚処理がおこなうカテゴリー分類(銘柄をききわける)能力が、聴覚においても同様なものだとすれば[この比較そのものが滅茶苦茶なのだがーーただしC・S・パースのアブダクションの議論ではないが、味覚と聴覚を混同するのは錯誤だが、感覚の経験的な精度あげることに、脳の情報処理が関係しているという類推をすると、これらの比較思考の跳躍(味覚と聴覚を同じ原理で扱う)というのも推論の著しい錯誤だとは言えない]、このような「遊び」が単なる時間の無駄とは言えなくなりますね。経験や暗黙知は、理論言語に乗りにくいので、理屈で説明すると言説の奇妙な比喩や、他者に共感を生みにくい語彙が頻出するというわけです。「遊び」の比喩は、このような経験と言語表現の間を埋めるには、違和感のない言い方になりますねぇ。
 昨日からはガムランCDの録音で、このことを「感じるべく」いろいろ聞き分けています。しかし、古い録音年代のものにも定位感のあるものがあり、また最近の録音でも超ハイファイなのだが、奇妙な定位感ーーガムランはオーケストラ的編成なので、ステレオ的臨場感を出すためにはかなりミキシング加工しているのが丸わかりのものがありますね。また、演奏題目が同じではないし、また同じであったとしても楽団によって多様性がありますからね。(例*バリガムランだったらタルナ・ジャヤという名曲があり、多くの年代の多くの楽団が演奏している)。レファレンスする際の媒介変数はあほみたいに多くなり、表現するには隔靴掻痒の気分ですけど。それからエレノア・ギブソンの本だったかこれも記憶が定かではないのだが、今は1/fの揺らぎ仮説などは、ほとんど相手にされなくなったとのことでした。山口理論では22Kの付近がネックや〜との託宣ですが、20Kで切ったCDでも、ガムランはそこそこ「ハイ」になりますけどね。ま、これも、同じ音源で、CDとレコードを比較演奏してみないとわかりまへんわな。(将来の研究課題ですね)
 それから、山口理論は、その多くの部分をレコードの奥の深さを録音のプレスの多様性と再生技術装置の年代依存性で説明していますが、『新発見』の冒頭だったかな、アナログ機械の操作の煩雑性(私に言わせれば儀礼的要素、菅野沖彦流に言わせれば「演奏家的要素」)が生み出すアメニティについても言及していますよ。だから大権現さんが、新しい機械が欲しくなる欲望を制御するためにも、これまで使っていた再生装置のセッティングを変えたり、針圧を変えるなりして儀礼的要素(ー見退屈な儀礼が参与者に快楽を生むのは、実は退屈の原因であると思われている冗長性にあるのだと、B・カッフェラーだったかな人類学者が言っています)に多少、メリハリを効かせれば、購入欲望を抑制することができますよ。