思想のフェチ化から自由になるには?

アイザイア・バーリン 帰って少しずつ読んでいたM・イグナティエフアイザイア・バーリンみすず書房に完全に填ってますよ。なぜバーリンなのか? というのはグアテマラで読んだG・ギアツプリンストン退職記念のシンポの論文集の中に、ギアーツの思想のなかにバーリンリベラリズムがあるという指摘があったからです。むかし政治思想では随分昔から翻訳されていたので、大昔にすこし読んだことがありましたが、書名すらも忘れ(バーリン選集の1冊か?)内容はほどんど忘れていました(その当時は今よりも輪を掛けて馬鹿だったからでしょう・・)。前回のメールのウェーバー事典への渇望もそこから来ているのですわ(鉄の檻については、ハーバードUPの『事典』に詳しい解説がありましたわ。それと関係するけどケージに鉄のという形容詞をつけた)パーソンズは、ギアツの先生で、Sinn=意味はギアツの解釈人類学の重要な鍵概念ですからね。ところで貴兄に勧められたケスラーの本はよかった! 日本に欠けているのはこういうセンスの人ですね。『社会学論集』の月報に著名だった安藤某先生のエッセーがありましたが、書簡をはじめ(現存する書簡がもっとも多く保管されているのは日本だとか?)ウェーバーの思想をフェチ化しちゃうんですよ。(久雄どころか浩もその気あり、後者はベンディクスすらフェチ化しちゃったりして)。だから、ウェーバー擁護/批判の論陣がまさに「大人」の議論をしていないのですな。ケスラーの本では、くだんの大学就任の国民経済の演説(論文)を好意的に解釈していましたが、最近翻訳されたベネディクト・アンダーソンの『比較の亡霊』の中では、ナショナリズム言説のファナティック化の悪例として挙げられていました(あのウェーバーが・・というふうに:しかし委細失念なので不正確です)。日本ではあまり取り上げられることのないあの国民経済の論文は、あの当時の歴史状況や、その修辞を含めて、検討する価値があると思います(研究者の社会的関与の問題というテーマでね)。しかし、ウェーバーはあまりにも木訥で(ケスラーの描写だと)マザコンでありながら自分のオヤジ的マチスモも否認できなくなったので、やっぱり思想的立ち回りに関しては不器用だったのだと思います。ジンメルなどの就職に尽力したという話も泣ける話ですね。それにくらべると永遠のディアスポラユダヤ人であるバーリンの抑制のとれたシニカルな生き方に共鳴しますねぇ。(きっとないものねだりなのかもしれませんーーでも人の人生から自分の人生を再考するのは面白い)。