Un-Stolen Moments !

お師匠様へ
**
垂水源之介です。
知子の情報が使えなくて以降、というか、データベースノートのモードの知的生産を私ができなくなったということだと思います。それとも、実は知子でもファイルメーカーでも、そのような梯子はもう必要なくなったのかも知れません。また、もっと違う知的「生産の鏡」を求めているのかもしれません(ボードリアールのパロディ)。あるいは、立花隆が、知のソフトウェアかなにかの本でことあるごとにいうアウトライン法による作文法への嫌悪という気持ちを共有しているのかもしれません。
でもそれは、論文の書き方においてアウトライン法を採用しないということとは、無関係なものです(追いつめられた論文制作者がどんな手を使ってでも論文を書き上げてしまうように・・・)。
**
私は、立花隆も『人文系論文作法』の作者も共に、人文学の知的伝統の歴史的展開について歴史的思慮の欠けた馬鹿だと思います。なぜなら、我々はアウトラインかデータベースかという二者択一の世界に生きているわけではないということ。あるいは、論文はそのどちらかの一方でしか書けないとか、書くべきだという愚説を弄していること。これらの主張がある時点から浅薄に見えてきたからです(これらの方法をかつて試み、またそれについて考えた人がいるなら誰しもそう考えるでしょう!)。
この2つの思考論理について自覚的なれば明かですが、我々は2つの方法の二者択一でものを考えていないことなど自明だからです。あるいは我々が経験的にやっていることと、これからやろうとすること(やるべきだと考えること)の論理のパターンが違うことなど明かであるということです。我々は両方の世界を生きているのだと思います。
**
データベース思考の弱点については師匠のご指摘のとおりだと思います。(しかしネットでのデータマイニングの考え方が登場して状況は変わりつつあると思いますね。もちろん、この方法はいささかメーテルリンク的な「青い鳥」でもありますけどね)。要するに結論は、立花も人文系論文作法の説教臭い著者どもも論理が生まれてくるプロセスについて熟考することなく、単線的時間と論理展開のなかで論文が生まれてくるものだと思っている。このような思いこみが、なぜ我々は論文生産者になったのだという、もっとも重要にして最大の問題への配慮の眼を曇らせているということです。
我々は、アウトラインとデータベースの両方を振幅させながら論文を構築し、また結果においてアウトラインを遡及的に構築する(=逆アセンブリ的?)ことを通して論理上の弱点を補強し、論理的に完璧だと思っていたことを論文の草稿または投稿原稿として仕上げます。しかし指導教官や論文の査読者の指摘により、実証データや文献的傍証というパッチをさらに充てることで、つぎはぎだらけ(=ブリコラージュと最初のメールで言っているのはこのことです)論文を、いわゆる「ブラシアップ」し、それは最終的にあたかも「つぎはぎが無かったかのような論文」に仕上げられてしまうのです。(そのような論文は悪ではありません。工芸や芸術作品と同様、作品は完成して本物なのですーー開かれた作品やプロセス展示などは、別のジャンルのアートの様式です)
**
言うまでもなく、このプロセスとは、単に論文だけではなく、当たり前の日常生活を送っている社会のあり方(あるいは理解のされ方)と同じではないかということです。社会とはつぎはぎだらけの構築物なのに、そこに生きている我々はあたかも自然であるかのように生きている。
結局のところシュッツ的社会学の問題提起に戻りましたが、シュッツの生きた時代と我々の時代の類似点と相違点もあるでしょう。シュッツの社会学テーゼを〈ポストモダン〉状況において考えるのも悪くないと思います。
**
お師匠様が人生の中で、再びトライアルされておられることに敬意を表します。しかし、それは同じ若者という地平に立つことではないと思います。研究者と研究者の対象との関係についての、もっと深い相互作用の問題に関わることだと思います。
データベースノートとアウトライン法の二分法による理解は、そのための梯子であり、そのことについて気づき、すでに梯子に登り切った自覚があれば、その梯子は(新しいテーマやオーソドックスな方法で解けない問題に取り組む以外には)不要になるということだと思います。

●知的生産学入門
http://cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/0-tarumi.html
文化人類学学習資源
http://cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/000510viref.html
●勉強のやり方
http://cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/050223abc.html