興農合作社

大阪朝日新聞 1940.3.2-1940.3.3(昭和15)
誕生近き興農合作社 (上・下)
新京にて 島崎特派員

(上) 旧機構から開放 農民の理解獲得に腐心
 いま満州を支配しているトピックは合作社問題である。人口の八割を占める農民大衆を、半封建的な旧機構の桎梏から解放して、新体制の下に理想農村を創造しようという建国精神具現のための農村協同組合たる農事合作社と、高利貸資本の重圧から農民を救出しようという主旨の下に設立された近代的金融機関としての金融合作社、この両合作社を統合して、新たに興農合作社を作ることになったのであるが、果して如何なる形態において綜合が実現するか。問題が満洲農政の中核に触れているため、中央、地方の論議が花々しく展開され、一般の関心も全くここに凝結した。尤もその基本方針は決定しており、実現は四月一日と約束されているのではあるが…
この時に当ってなぜ両合作社を統合しなければならなかったかを簡述し新合作社に課せられた絶大な期待が那辺にあるかを暗示しておきたい。
 農事合作社は、昭和十二年六月満洲農村における唯一の農業経済団体として登場した。県、旗を単位とし、必要に応じその下に実行合作社を設けることとしたが、単位合作社の区域は一般行政機構との聯繋を密にするため、地方行政区画と殆ど一致しそこの農民の任意加入によって構成される。ただ日本における農事実行組合のような出資制度を原則とせずして社費制度とし、全合作社員をして平等に且つ階層に応じて経費を拠出する方法をとり、或は手数料としてその利用度における負担及び所得と経費の調和を考慮した。共同出荷の斡旋、農業倉庫入庫品の斡旋、共同利用施設、共同購入の斡旋、金融の斡旋、生産の指導など信用、販売、購買、利用、農事改良の綜合的経営を事業とする。しかして注目されるのはその役員をすべて官選とし、その他の行政団体と人的に聯繋せしめた点であろう。すなわち未だ近代的な経済運営に未熟な農民をして誤りなく合作社の精神を生かすためには、行政機関との密接な関聯の下に、これを指導しなければならない現実に即応した措置であった。
すなわち役員たる董事長は県長副董事長は副係長、参与董事は県技士が当り、これが監査機関たる監事には省または県の財政係官が当ることになった、しかして普通の行動組合のように総会または総代会を意思機関とするのでなく役員会を付属機関として意見を答申せしめ、これを参酌して代表機関または業務執行機関としての董事が同時に意思機関として合作社の最高意思を決定することにした。すなわち代表機関、業務執行機関および意思機関の三者を合一せしめたのである。もっともこの点については他面危険性もあった。役員に適当な人物を得ない場合は独断専行に流れ、合作社員の要望を無視して不急事業を拡大したり、或は経営の放漫に走るが如き弊も招来し易く、従って監事制度及び監査機関の徹底活用にあると同時に、決定的要素たる董事の選定に適正を期さねばならなかった。今回新設される興農合作社において幾分色彩が緩和されたものの社長には県、旗、市長が当り、諮問機関たる参与には副県長、旗参事官、副市長、協和会県旗市本部事務長が当り更に聯合会の会長には省長が任命されることにしている
しかしながら農事合作社の目指すところは、あくまでも農民大衆の相互扶助、自治自助の協力綜合を基礎とし、半封建的な歪曲された社会構成による少数士豪劣紳の強権と、土地分配の不公正、高率地代の存在による地主、商業高利貸資本の不当収奪などから被る重圧のため、勤労農民大衆が貧窮のどん底に放棄されている現実、更にこれに照応する一般的文化、生活水準の低位と人口希薄などから運命づけられた「協同組合の荒野」を一挙に打開して、満洲農村機構をあくまでも建国の理想ひいて国家的要請に即応し得るが如き高度の全体主義的組織に改編せんとするもの。従って政府の意図するところは「農を通じて建国精神を実現」すべき「農民の産業経済団体」たらしめることであった」(出典:下記)。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00464815&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1