テレオノミーの循環論法

【テレオノミーの循環論法】
「動物を扱う研究でも、その苦痛を可能な限り抑え、彼らの貢献が無駄とならな いよう、真摯な態度で臨まなくてはなりません」>>って、動物は「貢献をするもの」であるということが最初から前提になっている。動物の観点からみると、これは不当であり、むしろ「貢献を強いられている」ということになる。このことは、ナチスによる(被験者が結果的に死ぬ事を前提にする)ユダヤ人の人体実験でも同様だ。そもそも実験動物というプレイヤーが【もし】発話能力をもっていたら――いなくてもアドボケート可能だが――「誰のための貢献なのだ?」という審問がなされるはず。だから冒頭の文章は「貢献を強いられている」者に対する人間というプレイヤーによる【言い訳】にすぎない。動物は殺されて人間に貢献されるべきであるから、それは動物にも人間にも無駄のないよう、そして両方の存在に苦痛なきよう――美味いとか凄いとは言うが殺害そのものを悦ぶ生物などいない――に処される。冒頭の引用は、日本学術振興会「科学の健全な発展のために-誠実な科学者の心得-」編集委員会『科学の健全な発展のために(暫定版)』平成26年11月による。