思考能力の低下の耐えられない軽さについて

【思考能力の低下の耐えられない軽さについて】
 そこそこの大学の高学年や博士前期の学生・院生の人たちに、授業の意見を聞くと、ちょっとした抽象概念や用語が出てくると、卑近なものをテーマにしているにも関わらず(理解しよう、議論しようという)思考が止まって、どうもそこから先に勧められないらしい――僕はさまざまな追加資料も提示しているはずなのだが、そんなものは馬の耳に念仏らしい。そんな(わかんねぇ→ムズイ→もうダメという)認知的不協和とその克服は、教養課程でとっくにクリアしてもらっているはずだと思ってたが、ちょっと落ち込む。昔のリアクションペーパーは、もういいと言っているのに、時間をかけて、ちょっとした小論文を書く奴もいたんだが、この「ひつこく理解しようとする意志」の低下はショックだ。奇しくも、国会では、論理的な思考に耐えられないのか、表面的な言葉が踊る首相が「議論」らしいものをしている、この御時世だ、この國にして、この首相、これらの学生ありかと思ってしまう。
《思考能力低下の耐えられない軽さ(承前)》
 先の僕の「耐えられない軽さ」のエッセーでとりあげた実際の授業では、人工知能とのコミュニケーションについての、賛否両論の学者の立場や解説を資料として引用していました。しかし、あるグループでは「専門家が議論しているのにかかわらず素人(=解説者としての僕のこと、ないしは、解ろうとしない/知りたくない自分たちのこと)が口を挟むものではない」と主張するという始末(もちろん残りのグループはこんな馬鹿なデカダンス状態には陥らず、必死で考えて答えを出してまして)。叱責する気力も失いました――考えなさいという課題を与えたのに、これは専門家の議論だから、考える必要なしと言うのが、僕にとっての「耐えられない軽さ」だったのです。「専門家が言うんだから、ガス室に行こう」というブラックジョークをおもいつきました〜♪ ――もちろんアーレントの banality of evil と、クンデラの小説からのパロディです
そして、付録として、学生も学生なら、先生も先生という実例です。
【アフガン大統領選挙とハンナという猫について】
 アフガン本日大統領選:「アフガン大統領選、暫定結果でアブドラ氏首位ガニ氏と決選投票」御存知のように背景にパシュトゥーンとタジク等の暗闘の可能性がある。しかしよく考えれば、この対立構図の歴史的起源は、the Great Gameに遡れる、冷戦構造以前から続く世界の軍事的覇権対立抗争だ――【余談】アーレント全体主義の起源の第二巻「帝国主義」にはグレイトゲームやキプリングについて言及があるので、熱心なアーレント読みなら(それが現在までに続いているという――歴史的)関心を持たれるはずなのだが、そんな論者が誰もいない。新聞の論壇に投稿すれば、さらにアーレントのファンを獲得すること(=ハンナ産業の振興)ができるのに、日本の(表層的リベラリズムを模倣する)凡百のアーレント研究者は、それが今のアフガンにもつづく「歴史的連鎖」であることを、御指摘にならぬ。猫に小判――なんと悲しいことか。