アラン・チューリングへの奇妙な恩赦の発給について

【僕たちはもっと詩を書くべきなのだ】
 死者に名誉回復するのは、本当は容易なことで、書類を書いて、それを最高責任者はオーソライズして、公表すればすむことだからだ。そのような容易なことを権力者がすぐにやらないのは、残された遺族や関係者に対して(金銭と名誉を含む)補償の対価を高く見積もっているからだ。なぜなら、対価が高ければ高いほど、その当時の権力者の(つまらない)権威が失墜するからである。チューリングの発明が空気のように常識になり、もはやチューリングの偉大さが忘れられ、知識が博物館に入る時、そのような小汚い偽善がおこなわれる。アウシュビッツ以降に詩を書くことは野蛮だというが、アウシュビッツ以前でも、ある種の権力関係の中では「詩を書くことは野蛮であったのだ」。だが野蛮だから詩を書くのは僕たちは止めることができるのだろうか。むしろ詩という野蛮な行為を通して、僕たちは言葉にならないことを蛮勇をふるって言葉を絞りだしてきたのではないだろうか。僕たちはもっと詩を書くべきなのだ。詩を書くことを通して、我々に降り掛かる野蛮なことに抵抗すべきなのだ。だからこそ、アウシュビッツ以前でも以降でも、野蛮であろうがなかろうが、詩を書くことは僕たちの重要なことになるのだ。アドルノの妄言はもう忘れよう。