生権力と近代化について

僕はスローガン好きの煽動家だけど、同じ業界の人から投げかけれてきた、とある研究会の文章の一部(下記)には、ホンマカイナと思ってしまった。
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【引用文】「再帰的近代が、自己モニタリングの消耗戦を強い、生権力の昂進をもたらしているいま」
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【僕のイチャモン】:
僕たちはそんな「いま」を生きているのかな?僕はそう思わない。そのような言上げの修飾節について検討する必要がある。
再帰的近代化は、自己を近代化の対象とするわけだから、自己モニタリングは、同語反復だ。それが消耗戦状態にあるというのはそのようなフィードバックが苛烈になっていると理解することができる。だけどそれが【帰結】として「生権力の昂進」を生むってのが、全然わかんない。生権力(=アナトモポリティクとバイオパワー[狭義]という2つの性格をもつフーコーの用語)の批判の枠組みは、いわゆる「晩期フーコー」への分水嶺となる「昂進」や「衰退」さらには「搾取」などで理解される「権力概念への批判」の流れの中で理解しているので、再帰的近代化のような、素朴で粗雑な、およそ理論言語とは言いがたい「恐怖の」(クリテバ)語彙のようなものと、マッチングできないんじゃないかな?ということはフーコーの「生権力」は逆に、理論的な洗練化ーー実際フーコーの記述はそういうタイプの学問化を拒絶しただろうがーーには適していない理論言語(これ自体が撞着語法だが)なのではないだろうか?
権力を批判的に分析しているつもりが権力に捕われているというニーチェの「反省」あるいは「自己肯定」のほうがもっと潔い研究者としての立場だと思う。あるいはめちゃくちゃにぶっこわしてしまい、断片から奇妙な託宣を恣意的に読むデリダのほうがかっこいい。後者の立場なら、議論の本質と、議論のスタイルの間に、有意味な関係などない、と喝破するだろうが……