犬的存在=Cynic being

【犬的存在=Cynic being】
 ある審問「大学が『批判的機能』を失ったのは【いつ】頃からなのか?」それに対する仮想的応答「60年代、70年代、いや80年代、あるいは90年代、いやいやニューミレニアム以降だ……」このような審問と応答は、実は完全に【虚妄】だったのだ。
 大学の中にいる人の種類とは、つねに、それが飼いならされて、そして繋がれている社会の【犬的存在=Cynic being】にすぎない。かつて人民の番犬になろうとしたが、やっていたのはせいぜい夜警犬、それもそれを幸せな連中で、多くは野良犬、人間様の夜盗が弱くなったら、今度はペット化、ご主人様以外にはキャンキャン吠えるしか能がない存在に。それも【堕した】のではなく、もともとそういう自覚をしたことのない連中なのだ。【犬的存在】とは、そのような世界への無自覚を表象する言葉なのだ。