公序良俗を妨げる言論の自由はある

公序良俗を妨げる言論の自由はある】
 あのマイケル・ムーアですら、全米ライフル協会KKKイカレテイルと批判するが、そんな発言を制限すべきだとは言わない。またライフルやKKKのような狂った団体も連中を銃でぶち殺してやれとは思うでしょうが、その発言を権力で黙らせろとは言わない。そんな強制力を持たせる権力の存在は「自由の敵」だからです。彼らの紋切型表現を借りると、アメリカは「自由な国」だからなのです。赤狩りのマッカーシの公聴会に、自由の信念をまげずに発言した黒人のおばちゃんの勇気は、人種差別主義者ですら褒め称えました(映像が残っとります)。自由の概念はアメリカを理解する時に重要だし、日本国憲法の中にも反映されていることは明白です。
 さて自民党憲法改正案の中には「言論の自由」を保証するという文言に、公序良俗を妨げない限りという付帯条項をつけて「言論の自由」を制限しようとしています。それもオウム真理教をあげてね。自民の平沢なんかはテレビ局の取材の危惧不安への応答コメントに「絶対ありえません」などと言っている。絶対ありえないのなら、付帯事項は要らないですね。だから、その応答そのものが「言論の自由」を制限することに使いたいと馬脚を顕しています。
 自民党改憲派なんて、96条改悪からみも「子供なみ」のナイーブな発想なんですな。でも、馬鹿にしてはいけません。悪巧みという点から言えば、これは天才級なのですから。つまり公序良俗を、政府のみならず誰にも定義することができないのです。公序良俗は、多数派のコンセンサスですが、狂った言論でも抑圧すれば、弾圧という公序良俗を妨げる国家犯罪を引き起こしてしまう。自民党の議員たちは、論理的思考はぜんぜんありませんが、悪党の悪知恵でこの公序良俗というものが、定義できかつ自分たちがそれを操作できると思っているのです。これこそ、もっとも恐るべき考え方。悪の天才という理由がそこにあります。公序良俗が定義不能であることから導かれる論理はただ一つ!「公序良俗を妨げる言論の自由はある、し、また必要なのです」。だから、悲観的な人は、せいぜい今のうちに、政府を思いっきり罵倒しておいたほうがいいですよ。でないと、この公序良俗をたてに「非国民法」なんて簡単に立法できそうですからね!