基本情動につき

エクマンの立論の最大の問題は、基本情動の類型化の共通点が、文化を異なる人の情動語彙の共通性ということです。だからといって、証明もされていない内的メカニズム(そんなものがあったらの話ですが)も同じなのかは別問題かもしれないということです。色彩の分類の語彙の文化的差を、色彩認知の弁別能力と混同するのがまずいやろと、人類学者なら突っ込むわけです。他方、このような語彙を細かく操作できる人びとの能力は、実際の色彩を見分ける能力ではなく、語彙に認知経験を割り当てる知的操作の問題ではないのか?、その知的操作の神経学的根拠はあるはずだから、なんでも文化差に落とし込む立論も論点先取やろうと、反撃を喰らうわけです。
少なくとも同一文化の中では、その文化が用意する「基本情動」語彙を、トークン(通貨のようにその社会の共通の符丁)として、個々の情動にまつわる経験を、共通のものとして組織化できる可能性があるわけですから、「「基本的情動」を信じているからこそ、私たちはつきあえる」という主張は、正当性を持ちえますね〜♪