大学で宗教研究を勉強したい高校生へ

続いて、宗教研究を勉強する際の問題について考えてみたい。
宗教は勉強するものではなく、実践するものだという主張がある。
あるいは神学や仏教学のように、宗教を実践するために、宗教を研究する・勉強するという立場がある。その特定の宗教を肯定・容認・崇拝するという立場である。
宗教を信じるか否かという弁別は本当は難しい。というか本人以外には証明できない。従って、宗教を信じることを外部(=第三者)から証明できないので、ある宗教の信者であることは、しばしばその宗教が用意する儀礼や儀式などを「遂行する」ことで信じる者であることを定義してきた。
信じる/信じない、いずれにせよ「宗教」を研究をおこなうことはできる。なぜなら(特定、個別の)宗教を信じるという人がおり、その人たちは儀礼を実践し、教義や教えなるものがあるから、宗教を信じる人や、その教義など研究することができる。
このような近代的な宗教研究を可能にしたのは、18世紀や19世紀に「無神論」という立場が登場してきたことと無縁ではない。無神論という立場は、さまざまな幅をもつ。つまり、神や神的・精霊などの存在を全く容認しない唯物論――物理法則に確固たる信念を抱くのは宗教の一種だという批判はあるが――から、他の人の信仰は容認するけど自分自身は信じないという立場、さらには、神はいないと思うけど信仰は可能だという(脱・無神論の)立場まで。無神論がなぜ重要かというと、研究する人は、宗教を信じる/信じないという立場を超えて、宗教を客観化か、客体化して、研究つまり議論できるという可能性を切り開いたからだ。この無神論は、世俗化――神の有無についてそれほど拘泥しなくても生きれる世界の誕生――という世界の趨勢が生まれたことを示唆する。
だから、今日、立場を超えて宗教について自由に議論することができる。もちろん、極端な宗教的原理主義や、世俗化をきらう出家主義などを除けば。
というわけで宗教研究というのは、日本は世界的にもかなり世俗化した世界なので、面白い宗教研究をしている大学は日本にはなかなか少ないが、そこを経由して、海外留学すればよい(チベットテヘラン、エジプト、タイ、バチカンイスタンブールや、ロシア、ロンドン、などの大宗教のセンターや、世界の民俗宗教のシャーマンやグルなどがいるところで学ぶことが、本当のところはいい)。アメリカの大学も宗教研究には定評がある(というか学問のヘゲモニーアメリカ合衆国が今は完全に牛耳っているので )。