計画停電ラプソディ(あるいは停電のフーガ)

計画停電ラプソディ(あるいは停電のフーガ)
「教員の判断で講義が可能」という説明は(大変僭越ながら)大昔、学生の頃に建国記念日に授業をやっていた老大学教師のアナクロ感覚を思い起こしました。(本人の自覚の有無とは関係なしに、授業開講を教員の専権事項だと考えるから建国記念日にもやってもいい論理になる)。ということで開講不開講の権限は、教員の専権事項かもしれませんが、そのガイドラインを学生に明確に示しておくのは管理者の責任だと思います。
ここで、教員や管理者観点からよりも、受講学生の観点から考えてみるのはいかがでしょうか?
というのは、先般の台風の時も、警報が出る前に学生が、さっさと開講の有無を携帯メールなどで照会してきていました。つまり学生は、授業をやるのであれば「出る」やらないのであれば(無駄なので)「出ない」という単純明快なプラグマティックな論理で動いているようです。
よくよく考えてみると、教師のポリシーを伝えることよりも、受講学生にとっては「やるのか、やらないのか」――そしてそれが成績にどのように反映するのか――というレベルの話のような感じがします。台風の各種警報の場合も同様ですが、次のようなポリシーを教員間で確認すればどうでしょうか?
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計画停電にかぶると原則として授業はなく、それにより欠席しても成績に不利というものはないことを確認する。臨時休講に対するその後の補講などの措置は、各教員の『自主的な判断』に任すが、その後の措置に関する受講学生に対する情報伝達や説明は(その後の授業内で)過不足なく迅速におこなわれるべきものとする」
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余計な蛇足(冗長語法)
ま、こんなふうに誰もが自主的に判断できれば、誰も苦労することなく、警報や停電でビビルことはないと思うのですが。それよりも気象警報になったら(事務は仕事を続けるのに)さっさと閉館にしてしまう、附属図書館の無粋な〈迅速すぎる対応〉のほうが恨めしいですね。勉強熱心な学生も、同様のことを言っておりました。
合掌:伊藤エミ尼女