姨捨伝説・異説

 授業がはじまって、皆様におかれましては勉学に教鞭に大変忙しく取り組まれておられることとお喜びもうしあげます(「何言ってんの?御苦労でしょう?!」というマジ切れの声も聞こえてきます)。さて、私事ですが、一方で、高齢者社会の新しい社会デザインと認知症コミュニケーションの授業、他方で、経済連携協定で渡日する人たちの労働と送出国側の高齢者福祉ケアに、近年、関心を持ちつづけています。
 しかし、文化人類学医療人類学)者として、慣れ親しんだ思考法とハビトゥスゆえ、人様に善意をおしつけ正義を吹聴する道徳的企業家(moral entrepreneur)にはなれず、かといって、世の中なるようにケセラセラと偽悪者ぶるのも(ポスト福島の時代では、眉間に皺を寄せないと明るいところで営業=教育できず)居場所がないというわけで、文化人類学の斜陽化――これは学会内部でも問題視され近年議論が始まっています――は、内的なポテンシャルの低下のみだけでは説明出来ないとも言えます。
 てなことはさておき、「未開社会」における高齢者の処遇について文化人類学の教科書を紐解けば必ずでてくる老人遺棄。上に記しましたように、(童話を読むように)このような「遺習」が素直に「へぇ〜」と声を出して(ネガティブ/ポジティブに)感動できない社会状況にあって、仮にこのことが植民地期末期にいい加減なインフォーマントにより「真実」として、これまた今日における実証科学方法論――コント哲学など誰もフィールドワークで具現化するとは思っていなかった(実際例えば The Catechism of Positive Religion なんて書名(英訳)を聴くとナイーブなワーカーは誰もがビビる)――を実修していなかった誠実だが学的にいい加減な民族誌家との「合作」であったとしても、今なおヒューマニズムは決して護持すべき信条などではなく、つねに人間が問わなければならない歪んだ鏡(それも唯一の鏡)であることを思い起こさせる反省材料にはなると思います。
 というわけで、過日より気になっていた姨捨伝説について、ちょっと考えてみました。お暇な時にご笑覧いただき、「君の立論は奇妙だ、ないしは間違っている」旨がございましたら、お気軽にお返事ください。