プロクルステスの真逆の精神の持ち主

私はアバウトな人間で、どのような論考にも、隙間や自由度を確保すべきだと考えています。(人類学に関する論文集を読む楽しみは、編者の一貫性などにはなく、むしろ、各執筆者の素材の取り扱いや思考過程の多様さに驚愕することです。名うての人類学者が修辞に長けているのも意味があると思います。だからこそ人類学は修辞を自己反省の材料にすることができる、きわめてヒューマニティの伝統に則ったデモクラティックな学問だからと、新鮮な論文に出会う度に毎度思います。つまり、プロクルステスとは真逆の精神の持ち主こそが本物の人類学者かもしれません)。
後記:
もう10年以上も前ですが、Terry Eagleton, Literary Theory: An Introduction. Minneapolis: University of Minnesota Press, 1983, の最終章だと思いますが(私は日本語訳『文学とはなにか』で読みました)、現代の文学理論に「文は人を動かす」という本来の意味での修辞の理念を取り戻す――マルクス主義理論家の彼としては実践の意味や、下部構造と上部構造の対照関係ではなく弁証法的な関係を想定しているのでしょうが――ことが雄弁に主張されていたのを鮮明に思い出します。私は、これに、writing culture のなかのJames Clifford の議論などを重ね読みをすることで、後者の重要な著作が、ポストモダン人類学「以上」あるいは「それ以外」の意義をもつ議論を展開していると思います。日本における writing culture の読み方は、人類学あるいは人類学的著述の(修辞の)「力」に関してあまりにも相対主義的メッセージとしてナイーブに読みすぎていると思います。もっと、誤読をする必要もあります。修辞に長けるとは、人類学的想像力という生産的誤読を誘発するための装置だと考えると、なにかわくわくしませんか?_この見解は、よい人類学の教師とは思えませんが。クリフォード・ギアツ以降で育った僕たちの世代は、人類学的想像力の多くを文学ないしは文学理論に負っている傾向が、どうもあるようです。
さらにもうひとつ:
それぞれの論者が、ある種の概念の(なにかの)「枯渇」から、立論をしているのが共通点があります。つまり、社会あるいは社会性(ストラザーン)、自然(VdC)、近代(ラトゥール)の諸概念の批判です。でも私が感じるのは、彼らの「手口=修辞」の共通点は、基本的に社会構築主義的(あるいは反本質主義)的な手法を使うために、実際は分析をする概念が枯渇しているか「まだ足りない」はずなのに、一気に、その概念対象に対して「社会/自然/近代などない」という、ウルトラ相対主義的な主張をしかけるように「誤読」されてしまう点にあります。ある意味で、プラグマティックな鈍感さや実用的現場力――ジャガーに生き血を吸われる前にジャガーを仕留め腹の足しにしなければならない、インフォーマントが語るジャガー自身のコスモロジー経験を「採集」するのは、食事の後のほうがいい――が必要なんですよ。
だからといって、解釈人類学が無用になるわけではないし、この派閥の人たちがグノーシス派というのも間違っている。4月から院ゼミで「クリフォード・ギアツの人類学」という授業をはじめますが、彼のジャワへの派遣には、比較政治の研究の研究基金が出ているからで、その成果は『文化の解釈』にも登場します。シルズ、アプター、ハンティントン、などとならんで、彼は政治理論あるいは政治紛争理論における primordialism の系譜にあることも、最近の予習でちょっとは知る事になりました。あるいは agricultural involution の経済発展の議論も同様。ともに、文化という現象を、政治や経済と同様、それぞれの別々の領域の固有の出来事として考えてはだめだ。横ぐしあるいは、相互連関システムとして見なければならない、というパーソンズ流の研究対象の分析観があり、また、現地語の概念への精通という意味では、ボアズやベネディクトの正統派のラインの延長上にあると言えます。(もちろん後の生き方にグノーシス的なところがあったことは否定出来ませんが……)
ギアーツは難解ですが、鋭い概念分析とプラグマティックな現場感覚(フィールドデータ収集の嗅覚)見事に溶け合って不思議な魅力を醸し出しています。(もう死んで長いですけど)今でも、私のヒーローのままです。