引用文との付き合い方

 引用文とは、いろいろな機能をもたせて作者はそれを引きますが、それが他の人に同じ効果をもたない/もたらさないからです。
 さて私はネットで『マタイによる福音書』を流し読みしてみました。マタイに登場するイエスは(私の好きなヨハネのような怪異な人物ではなく)、たとえ話ばかりを説く男です。その雄弁な彼にしても、またさまざまな超能力をもって、人々の便益をもたらしても(パンのかけらで多くの人の腹を満たす)、自分の能力を非常に高く評価したバブテスマのヨハネから洗礼を受けた後、故郷に帰った後、バプテスマのヨハネが首を刎ねられた話を聞くと、さっさと取り巻きの信者と町を逃げる小心者なのです(少なくとも私にはそう映る)。
 マタイには、さまざまなたとえ話や教訓があり、私たちにもおなじみのものばかりです。でも、それは都合よく刈り取られて引用された時には、イエス(あるいはマタイ)の「真意」を反映しているかどうか、歴史的、社会的、思想的隔たりがあるために、ものすごく落差があります。
 イエスでも、マタイでも、まあある意味で時空間を超えて「メッセージ」が送られてきたとしても、それを真理や事実として受け取るなんて、オカルトなみのナンセンスじゃないかな〜♪
 先の作家の引用もまた、私たちの個別や一般的真理と理解すると、それ以上の深みのある思考は止まってしまう。むしろ「(多角的に)考えるに値する命題文」だと考えればどうだろう?そしてその最初の質問は「なぜ私はその引用に魅かれたのか?」ということから始めるのが、引用文との「適切な」付き合い方かもしれませんね。

En gramática tradicional, un verbo auxiliar es un verbo que proporciona información gramatical y semántica adicional a un verbo de significado completo.
Sintácticamente, el verbo auxiliar, tal como aparece en español y la mayoría de lenguas indoeuropeas, se considera el núcleo sintáctico de un sintagma de tiempo (ST) más que de un sintagma verbal. de articulo "verbo auxiliar"(Wiki_Es)