ケア概念(ハイデガーの場合)

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先に、ベナーの看護論を読んだらとアドバイスしましたが、手元の本をみると、いきなり実践知の話からはじまるので、アクセスしてもあまりよいものとは思えません。そこで以下のような方針を変えてみます。
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ハイデガー存在と時間』では、現存在(自己=人間=主体)のあり方について、いろいろ議論しているのですが、そのなかで「配慮(ドイツ語で Besorgen)」というもの様相を「なにかに関わりをもつ」「なにかを製作する」(私が推測するにポイエーシスのことか?)「なにかを整頓し、手入れをする」「なにかを使用する」「なにかを棄てたり、なくしたりする」「企てる」「やり通す」「探す」「問いかける」「考察する」「論ずる」「規定する」などなどが含まれるとあります(ちくま文庫版(上)138ページ)
私はこれが、ケアの論理に近い出発点になっているのではないかと思います。同書238ページには――ただ索引で調べただけですが――「現存在配慮においてなにかを身近かへ取りよせる」とあります。また3行ほど後には「近づけることは、肉体を帯びている事物的自我を指向しておこなわれるのではなく、配慮的な世界=内=存在をもとにして、すなわち、この世界=内=存在のなかでそのつど身近に出会うものへむけて近づけることなのである」とあります。
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ハイデガー存在論を素人の私たちが都合よく料理するのは、厳密にそのことを専門にする人から非正統的な読みだと批判されるという点で危険なのですが、ハイデガーの議論から私たちは次のように学べばいいのではないでしょうか?
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つまり、ハイデガーに代表されるように、(1)ケア=配慮という言葉は、自分と世界の外側の事物(=もちろん人間を含む)に対して、とても多義的(=複数の意味をもつ)ことを理解しておく。(2)それ故に(2)ケアの定義をより簡潔にすればするほど、それに対する異論が噴出して、収拾がつかなくなる可能性がある、(3)だからと言ってケアの定義を放棄する必要はない、とりあえず重要な指摘をしたハイデガーの議論に倣いつつ(4)ケアとは、自分と自分がすむ世界の外側の事物(=もちろん人間を含む)に対して抱く配慮(Besorgen=手に入れる、世話する、面倒を見る)であると理解する。そうすると(5)彼が指摘したように配慮(=手に入れる、世話する、面倒を見る)にまつわる人間関係上の多様な相互作用関係が見えてくるし、(6)看護学が理解するケアの範疇は、病院や公衆衛生の実践の現場での、ある限定された領域における議論に特殊化していることがわかる。
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というあたりに落とし所をみつけるのはどうでしょうか?