招待する側の資質もまた同時に聴衆から評価される

mitzubishi2010-06-08

 過日のGCの講師の先生は、昨年と同じ講演内容でしたが、講演の情報内容に進展がなく、また講演内容も冗長で、さらに実践のみならず学問的にどうすればGCに結びつくのかという提案も突っ込んだ具体性に欠け、ちょっとつらいものがありました。
 また「無国籍者」の当事者性を出されること自体は、歴史的宿命なのですからそれを否定しませんが、なぜご本人の「無国籍」ということが、中学生生徒(氏名の実名をあげることも研究者としてはどうかと思いますが_メディアソースでは匿名で扱われています)繋がるのか――このことを真摯に検討するのがGCの実践論の重要な議論のポイントなのですが――ということが、ご自身の無国籍経験ということからどういう形で展開されたのかという考察の進展もなく――つまり去年と同じ――この状態が続くのであれば講師としての資格には「当事者性」である以上の正当化――たとえば「当事者をGCの教育の文脈のなかで適格に表象し、複数で複合的な当事者との連携の回路を拓く」こと――を今般の講師に求めることは今後は(新たな展開に関する講演をしていただく資質として)難しいのではないかと不安を抱いた次第。
 奇しくも講演の中で講師が言及したように、無国籍者の処遇の問題の最大のジレンマは、法や国際規約の制度にはかならずも「例外状況」が生まれること。例外は文字通りレアなケースなわけですから、マジョリティに対して共感や同情を引くことができない――このことに関する類似の逆説的な寓意が「ドレフュス事件」であることはみなさんご存知のとおり――ので、国際法や普遍的人権という根拠をもとへの司法当局への圧力と、その実態を子細に報告して人権主義にもとづく「人びとの同情や共感」(=具体的には人力か金力を動員する)得たり、あるいは時には(人権的な処遇に対する)「怒り」を喚起することもGCの技法の問題や倫理などにもつながる重要な契機にもなることを、悲惨現実の克服の課題には、そのような「複雑に絡み合った豊かなテーマが満載」されている挑戦的領域であることの、自覚を促すのも、戦略的に重要だと感じた次第。
 どのような学術招待講演でも、より大きなフレームの中では、その人が適格であると判断した招待する側の資質もまた同時に聴衆から評価されるということをお忘れなく。