聖体拝領としての私のコーヒー

mitzubishi2009-12-03

聖体拝領としての私のコーヒー
 私は自室でコーヒーを飲むときは、自分で豆を挽いて、通販で買ったラッセル・ボッブスの優れものの電気ポットで、自らの一杯分を入れる。
 ところがデザインならびに機能上の配慮からわが自室には水場がない。そこで事務にいって水を調達し――ペット入りのものか、浄水器から大型のマグに水を入れて持ってくる。
 電気ポットの注入口はコーヒー抽出に適した細口のものだ。
 私が好きな豆はいつも強いローストのもの、つまり俗にいうイタリアンローストやストロングローストなどといわれているものである[これらの名称は贔屓にしているコーヒー豆販売チェーン店の商品名の一部]。こうすると淡いローストの時のような独特の香りは少なくなるもののパンチの効いたロースト臭は比較的長く残り、頻繁に飲まないファンにも比較的長く楽しめる。
 もちろん挽くのは極細で、いわゆるエスプレッソ風になるが、蒸気で抽出しなくても強いコクのある風味が楽しめるので、これに慣れてしまうと、淡くローストしたそしてグラインドの目が粗いコーヒーなどは、香りだけで味にパンチがなく、やれやれと(いうよりももったいなく)思ってしまう。
 たぶんこのような私の趣味は遅い青春時代に2年間中央アメリカ・ホンジュラスの農村で過ごしたせいである。その村の水を飲むと何度も帰ってきたくなるという名水の謂われがあるとするならば、私のコーヒーの嗜好はドニャ・アデリータの甘くて苦いコーヒーにある(ほとんど2年間毎朝よばれにいったが、この経験は一生忘れないだろう)
 おっと聖体拝領の話だった! ところで私の部屋には学振の研究員のGY君の机があるが、彼が不在の時に、そこで店開きをしてコーヒーをいれる。電気ポットはマグ1杯分をわかすのに、ほとんど1分を切る早さで沸くので、先にコーヒーを挽いておく。陶器製のドリップ(カリタかメリタかどっちだったか忘れてしまった)は自宅の流しで落とした時にひびが入り買い換えて不要になったものを使っている。しっかりとひびが入っているのだが、このドリップは意外なほどタフで、全然使用に問題ないものになっている。
 ドリップは肉厚でひびがはいっており、また長年使ったコーヒーの渋がついている。こういうものはフェチ的な魅力を放ちつづけるので、おいそれと捨てられない。ドリップの内面には溝が切ってあるので執念深く磨き粉でも使わないかぎり渋はとれぬ。
 このような事情のために、いつしか私は抽出後のドリップを洗わなくなった。ではどうするのかというと、聖体拝領で使う葡萄酒の杯のように、綺麗な布ではないが、トイレットペーパーで濡れた部分と一緒に拭いて乾燥するという習慣が身についてしまった。もちろん、決してよそ様には絶対振る舞えない作法である。
 しかし見習いの神学生よろしく抽出がおわった厚手の白い陶器――不遜だがマリアの豊満な胸を想起させる――をペーパーでごしごし拭いていると、なぜか心が落ち着き、重要な儀礼がおわり、その後片付けに参与することで、その儀礼の有り難さをもいただいているような錯覚に陥る。
 というわけで何気ない習慣なのだが、私にとっては心を清明にする重要な儀礼になっているのだ。 
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ジョン・コルトレーンヴィレッジヴァンガード・ライブのインプレッションを聴いてはたしてまったく心が洗われない人はいるだろうか? 無償の魂の浄化
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愛のショック!
愛は狡猾 愛はみだら 愛は腐敗 愛は棺桶 愛は希望 愛は虚無 
Mi inspiracion ante "Y" por las liricas de la cancion de Plasilina Mosh...
垂水源之介