ADR as ”Alternative Dispute Regulation”

垂水源之介です。
今回の第5回ラテンアメリカ水法廷(グアテマラ・アンティグア)に後半の数日間、グアテマラ共和国サンマルコス県の友人たちが関わっているために(支援も兼ねて)傍聴参加しました――参加者数はおよそ50名から200名程度だったように思われます。
水法廷の起源については不案内ですが、TNI&CEO編『世界の〈水道民営化〉の実体』作品社、2007年にあるように、90年代以降のネオリベラル状況下における水道の民営化と、大手の多国籍飲料企業による飲料水市場の占有などに市民運動の側から対抗して、Aさんが書かれているような世界的なネットワーク運動化の結果だと思います。
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ADR(Alternative Dispute Resolution)は、司法裁判になり替わるべく有効的・即効的かつ現地の価値観に即応的という代替的方法で、日本をはじめ政府や公的機関が積極的に進めているもので、水法廷のような社会的アクションのようなものとは性格を異にするものだと思います。私の職場ではADRを研究したり実践する同僚が何人かおりますので、そのような方との日常のお話のなかでのADR(=公権力の代替機能, alternative public power control for private disputes=Alternative Dispute Regulation)に関する私の感想です。
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水法廷の雰囲気を、日本の歴史や文化に対応させるもっとも卑近な事例は「公害反対運動」と法廷闘争のそれらに近いものだとおもいます――東京で開催された女性国際戦犯法廷を想起してください。そのような告訴(=糾弾)と弁護について双方から意見を聴取して、専門家(今回の場合は法律、人権、環境、医学、歴史、社会学の専門家)による裁判員が非公開の長時間の討議を経て最後に「客観的な」判決を下すわけですから、一種の民衆法廷とも言えるものです。日本で、人民裁判などと揶揄されるような一方的な糾弾のような雰囲気は少なく――かといって汚染企業や監督官庁を擁護するようなものでもありませんので――どの判決も正鵠を得ているとは思いましたが穏当なものでした。
グアテマラでの法廷ですので、第五回の判例として先住民の水資源へのアクセス権を認めるということが加わったのが、本法廷における意義だったように思います。
私にとって残念だったのは、日本は公害に代表されるように水汚染の超先進国で、その負の歴史に関するさまざまな経験と知識をもっているはずなのに、その方面からの(科学的ならびに社会運動の経験の)国際貢献がまったくなかったことについては忸怩たる思いです。
先住民が多く住むサンマルコス県やウェウェテナンゴ県で、人々に水俣病の話をすると、誰もが関心をもってくれて、その歴史的経緯や、水俣病被害者の現在はどうなっているのかについてじつに細かく質問が出て、また熱心に聞いてくださいます。ラテンアメリカの人たちの水の権利に関する必死の闘争は、現在も絶えることなく続いている日本の反公害闘争と「たましい」を共有するものであると私は、そのたびに確認してきました。
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なお、ユリ・メリニ氏暗殺未遂事件の直後に、サンマルコスで採掘しているモンタナ社がすぐに社告を出して遺憾の意を表明しました。私の周囲の友人連中は(会社の刺客ではないかと)怪しい怪しいと言っていました。しかし判決の翌週に、ペテンイッツア湖の周辺のショッピングモール建設のための沿岸地の埋め立てと土地転がしに関する国会議員汚職のプレンサ・リブレの特ダネが掲載されており、メリニ氏とCALASがこのことをずっと追いかけていたので、すくなくとも私にとっては、この筋からの刺客の可能性がずっと怪しいように思われます。どこの国の国会議員でも黒い利権に与る者どもは、昔も今もかわらないようです。こういう腐敗糾弾のノウハウも日本の反公害運動の教訓が役立つはずなのですが……、国際連帯?の再構築の必要性を強く感じます。
長くなりましたが以上です。