電力文化マフィア?の歴史的ルーツ

◎木川田一隆(1899-1977)論文集<キカワダ カズタカ ロンブンシュウ>. -- (BN12139320)
東京 : 政経社, 1971
405p ; 20cm
注記: 内容:新しい「調和社会」をめざして,通貨不安と国際協力,変容する資本主義の新路線,経済秩序確立が先決,経済界と政府への提言,わが国の直面する今日的課題から,協調的競争への道,新しい産業秩序への主体的実践,佐藤内閣へのプロポーズ,経済社会発展計画の背景と課題,世界経済発展への参加の構え,米国中西部を訪問して,国際協調第二ラウンドを求めて, ; 自由世界の新しい前進のために,七〇年代日本の新路線,新経済社会発展計画の意図,変化する自由経済と新しい日米協力の道,通商立国の設計,変換期に立つわれわれの指点, 企業の社会的責任と経営権,群衆社会を引上げる新しい秩序造り,企業発展と経営管理者の任務,企業集中と独禁政策,新しい経営者像,企業における人間開発の構想,経営者の自覚と実践,新しい自由企業体制の確立, ; 不況下における経営者の責任,自由世界の基本課題と経営者の使命,未来を創る自由な経営者精神,挑戦と応戦による進歩の哲学,人間性回復の経済,広域運営の現状と将来,電気事業当面の諸問題,原子力発電計画の現状と今後の問題,東電の生命的発展の道,新しい人生がここからはじまる,七〇年代に対処する東京電力の構え,公害対策の現状と政府への要望,条件変化に即応した新たな発展
著者標目: 木川田, 一隆(1899-1977)<キカワダ, カズタカ>
分類: NDC6 : 330.4 ; NDLC : DA2
件名: 経済 ; 経営
◎ウィキによる木川田一隆の記事
福島県生まれ。旧制角田中学(現・宮城県角田高等学校)、旧制山形高校(現・山形大学)を経て、1926年東京帝国大学経済学部を卒業、東京電燈に入社する。東大時代は河合栄治郎の講義を最前列で聴き、河合の唱える理想主義的自由主義に傾倒した。社会に出てからは「電力の鬼」松永安左ヱ門に師事し、民間企業人としての闘魂を学ぶ。戦後の1951年、電力業界再編で誕生した東京電力で常務、1954年副社長となるが、部下の汚職事件の責任を取って1958年常務に降格する。ほどなくして1959年副社長に返り咲き、1961年青木均一の後を継いで社長に就任した。/1963年、経済同友会代表幹事に就任すると、所信で「協調的競争」を提唱し、人間尊重の理念をベースにしながら、産業界が自主的に適切な競争環境を整備すべきであると主張した。その具体的な動きとして、1966年から民間版の産業調整会議として活動を開始した「産業問題研究会」(略称産研)が挙げられる。単純な自由放任主義では産業界を取り巻く諸問題は解決できず、政府の介入を招くとの危機感から発足した産研は、一時は名だたる主要財界人を網羅、「財界参謀本部」などとも呼ばれ、八幡製鉄・富士製鉄の合併実現などに影響力を及ぼした。また日中国交回復実現にも力を入れ、1971年には右翼の妨害も意に介さず、風邪を押して訪中、周恩来首相と会談した。/1971年東電社長を水野久男に譲り、会長となる(〜1976年)。1974年電気料金値上げに対する不払い運動に見舞われたが、参議院議員市川房枝の要請を受け、企業としての政治献金取り止めの英断を下した。現実の中で理想の実現にたゆまぬ努力を続けた木川田の姿勢に、ある米国紙は「Business Statesman」と称えた」。
◎「電力の鬼」異説
 ウィキの「松永安左ヱ門」記述は、戦前の功績――国家総動員体制下で一時引退――と、戦後の(1950年代?)の電力値上げの際の強面の2つの評価の異なった「鬼」を表現している。記述の内容が中途半端。
http://criepi.denken.or.jp/jp/press/2000/07-27-j.html
「依田 直(よだ・すすむ)電力中央研究所 顧問(前理事長)は、タイ国タマサート大学1) からこのほど名誉博士号(Honorary Doctor of Philosophy)が授与されることとなった。授与式は、来る7月28日(金)にバンコク市内の同大学で行われ、プーミポン国王から授与される予定である。」(平成12年→2000年)
財団法人 二十一世紀文化学術財団