「可哀想な母子家庭」表現等は抑圧すべきか?

《「可哀想な母子家庭」表現等は抑圧すべきか?》
 昨日の朝のテレビで解説者の張本勲が「豪栄道の優勝褒めてやってくださいよ〜♪ 彼のうちは母子家庭なんだから!お母さんが一番よろこんではる!」旨と馬鹿デカイ声でコメントした。さすがに出演者はヤバイと思ったのだが、完全にスルーして、その後の不適切発言もなかったが、わが家の同居人は《片親よりマシやろ》と僕の「あかん」という反応には逆に取りあわなかった。僕は《いやシングルマザーと言い換えるべき》と反論したが、よく考えるとこの言い換え、大手のメディア会社の得意とする《言葉狩り》だと思い、ちょっと反省した。ちなみに現在の結婚制度では《マルティプル・マザーズ》という用語は存在しないし――産み/育てはあるのだが。母子家庭が不幸なのは、その存在ではなく、経済格差の原因になるという認識が社会(制度)に希薄で、シングルマザー家庭に手厚く平等に格差是正がなされないことが問題だと自分で反省した次第。張本の発言はそのことについて気付かせてくれた。よく考えると、僕が現在、この瞬間やっていることは、家庭内の対話における制度的民族誌(Institutional Ethnography)――ドロシー・スミスの造語――なんだ。そして、彼女の『実践としての制度的民族誌』という論文集をみていたら、フェミニスト社会学者らしい極めてフォーマリスティックな制度的民族誌の実践が、その現場と現場の認識を変えていこうとする姿勢をもたせる、あるいはそのような実践を生起するようなアプローチをよく表現している下記のようなスキームに出会った。在日朝鮮人出身の張本勲フェミニスト社会学者ドロシー・スミスは、僕がもつ《人称のカテゴリカルな差別意識》を脱構築してくれたわけです。感謝っ!

コンセンサスは対話から生まれる

《コンセンサスは対話から生まれる》
 記憶(の問題)が叫ばれるのは、その現実がすでに存在しないからだ……というのはよく言われる。よい記憶は繰り返され、またよい尾ひれがつくが、悪い記憶は加害当事者に抑圧され、なかったことにしよう/歴史的評価がさだまっていないという発言モーメントに働き(例:安倍晋三さんや菅官房長官の発言等々)、被害当事側たちのグループは、被害者本人や個別ケースを普遍化して、それらの悪が横溢したことにようという記憶の捏造がはじまる。これらのすべての人達に欠落しがちなのは、記憶は事実にもとづいてコンセンサスをもたないと、どのような主張も捏造されたものにすぎないということだ。捏造も真実も、双方とも社会的に構築されたものにすぎないが、前者にはコンセンサスがなく、後者にはよりコンセンサスがあるということだ。そして、この社会現象の「よき含意」は、コンセンサスは対話から生まれるということである。このことを理解しないかぎり、何も前にはすすまない。

セレブ大学者の煩悶について

《セレブ大学者の煩悶について》
 野依良治日経新聞に2011年に連載した私の履歴書が書籍になっている。このような超エリートのセレブ大先生の著作をたまさか読む必要があって半時間ほどザッピングした。野依が、小保方問題に辟易したのは、問題のレベルが低過ぎるということは、すでにわかっていたが、それ以上に彼が安倍総理から2006年に教育再生会議座長に就任したことにある。つまり、彼はその日から、日本の教育レベルの荒廃――とりわけ理工系大学院教育のレベルの衰退――に気づかされることになる。このヒポコンデリーが内閣や政府文科省を経由して旧帝大を中心にオケツをたたかれてもう10年になるが、この期間の半分を折り返した時点で、野依は日経新聞に危機を嘆き、それなりに自分の改善案を提示する。しかし、御存知のように旧帝大はそれまでの予算獲得の既得権益と「口先だけの改革」で、ある意味で、当時の教育再生会議座長の心痛などどこ吹く風であったのだ。その折りの留めをさす、自分が理事長をやっている時代の小保方捏造問題の発覚。野依が記者会見で機嫌がわるいのは――もともど無愛想な表情の人だが――ある意味で当然だったのだろう。たぶん、彼はまったくいわれのない中傷や、あるいは貧乏くじを引いた気分だったのだろう。だが、成功者と失敗者が露骨に分かれ、そして成功者がかならずしも科学界におけるメリトクラシーの反映でないようにシステムが「鈍化」していたとしたら、それは野依らの超セレブな研究者たちのこれまでの科学技術政策へのコミットのなさという「自己責任」でもあるのだ。それは権力の外野で警鐘を鳴らしてきた池内紀らのリベラル派の科学者の責には負わされない、ノーブレス・オブリージュだったのだ。http://ci.nii.ac.jp/ncid/BB05591186

サイバーモルモット宣言

《サイバーモルモット宣言2016年8月24日》
1.そこにいかなければ資料が手に入らないという強迫から自由になる。
2.そこにいかなければコミュニケーションできないという強迫から自由になる。
3.それを購入したら、何かが得られるという強迫から自由になる。
4.時間を投資したら充実した経験ができるという強迫から自由になる。
5.リア充(=三次元)と二次元は根本的に違い、前者のほうが後者よりも尊いという強迫から自由になる。
6.よい情報は確かなサイトから有料でしか得られないという強迫から自由になる。
7.無料ダウンロードには良い事だらけだというアホな願望から自由になること。
8.あらゆるクリックにはリスクが伴うという覚悟をして、自己責任によりクリックしているという自覚をもつこと。
9.Googleのクリックには、クッキー契約をしており、その個々のクリック情報が吸い上げられるだけでなく、クリックの組み合わせ情報も吸い上げられることを覚悟すること。あわせて、そのクリックは自分の捜索=創作行為だという馬鹿なことは想起しないこと。我々はサイバー・ケージの中のモルモットなのだ。
10.まとめ:クリックせよ!さらば開かれん!(QED

.サイバーモルモット宣言あるいはインターネットによるロゴテラピー10条でした!

https://www.facebook.com/quqchij.mitzubixi

辛口のレビュアーになること

《読書感想文からの卒業:辛口のレビュアーになる》
 ある関東の非常勤の先生が、ゼミでウィキを編集するプロジェクト授業やってたけど、それにヒントを得て。……大学の教養課程で、どんな好きな本でもいいので、読んで、Amazonに400字〜800字のレビュー書けと指示して、アカウントの証明とらせて、プリントアウト提出させるとか、いいんじゃないかな? 学生の私的なサークルで、こんなのをやってもいいかも。大学入試のあの腐った読書感想文から卒業して――大学の教師でも酷い奴がいるよ。小論文の採点委員で一緒になって発見したことがある――辛口のレビュアーになるとは《いわゆるプロの学生》になるということですから……

勉強好き=変態学説

《勉強好き(sapere aude)=変態学説》
 人間は勉強が嫌いなのが普通の姿です。他の学生はできて、自分はできないという現実はつらいものです。しかし、誰でもわかることですが、勉強が根っから好きな奴というのはいません。もしいたら変態(クイア)です。学者とは、人為的な努力によって勉強が好きになった変態にほかなりません。しかし、この変態趣味こそが近代社会をつくりあげてきた原動力になったことも事実です。勉強好きになるとは、変態になることだというビジョンの転換をおこなうことが大切です。つまり、勉強ができなかったり、勉強が嫌いなあなたが、自分の欲望に忠実であることを、まず自分に言い聞かせることです。
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/021231cyborg.html

フッサール先生の「やり方」に感謝する

フッサール先生の「やり方」に感謝すること〜♪》
 フッサールが、人間の身体性と内面性を手がかりに周囲を認識していくことを「発見」したのではなくて、そのような言説を行使する(=弄するとも言う)ことをで、人間の新しい認識行動論を「発明」したのだ。あるいは、我々をそう導いてくれた。フッサールのこの発明のおかげで、僕たちは世界(世俗でも環世界=ウンベルトでもいい)のなかで、身体と「私は何を感じて行為しているのだ」という反省の位相をある程度自覚し、そして、世界のあり方を変えることができたのである。もちろん、フッサール先生以外のやり方でもOKだ。(世界による制約がありながらもまた)自分たちが自分たちを納得して切り開くことができるようになったわけだから。